ヨーガ大師の著書に学ぶ「人間五蔵説」

『魂の科学』

本山博氏の著書をきっかけにヨガ哲学というものに関心が湧いてきて、最後まで読めていなかった『魂の科学』という本のページをもう一度めくり始めました。

著者、スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ氏はヒマラヤ山中でヨーガを行じ続け悟りの境地に達したラージャ・ヨーガ大師。

古い聖典に書かれていることを、彼自身が霊視により確認し記しています。

『真我は教示によって得られず、知力によっても、また、多聞によっても得られず。』(ムンダカ・ウパニシャッド Ⅲ-2-3)

『魂の科学』p.328

と、あるように、知識を得るだけでなく、瞑想を重ね体感していくことが大切なのでしょう。

とはいえ、8年が経って読み返してみると、特にメンタルヘルスの分野でようやく言われはじめていることと無関係ではないように思えて、書かれていることに強く惹かれるのです。

まだまだ理解できないことが多いのですが、翻訳者である木村慧心先生の著書『ヨーガ療法マネージメント』も参考にしながら、皆さまにもシェアしていきたいと思います。

(単語によってはローマ字化したサンスクリット語も載っているのですが、引用文では省略していることが多いです。御了承ください。)

人間五蔵説

スピリチュアルに関心がある方は、肉体からエーテル体・アストラル体・メンタル体・コーザル体と外へと広がっていくオーラのイラストを見たことがあるでしょう。

インドにも人間の多層構造を説いた『人間五蔵説』と言われるものがあります。

この説が記されているのは、紀元前1000年をさかのぼるとも言われる古ウパニシャッド聖典群のなかだそうですが、面白いのは、この肉体が一番外側とされていることです。

真ん中に人の姿があるのでわかりにくいかもしれませんが、

一番外側の食物鞘(アンナマヤ・コーシャ)が、解剖学の対象となるこの肉体のことです。
その内側が生気鞘(プラーナマヤ・コーシャ)
更に内側が意思鞘(マノーマヤ・コーシャ)
更に内側が理智鞘(ヴィジナーナマヤ・コーシャ)
そして、歓喜鞘(アーナンダマヤ・コーシャ)です。

鞘と訳されているコーシャとは、カヴァー(被い)という意味だそうですが、この五つの鞘は、真の自分自身ではなく、歓喜鞘の更に内奥に真我(アートマン)が鎮座しているというのです。

肉体・微細体・原因体

五つの鞘(パンチャコーシャ)を一つ一つ取り上げる前に『魂の科学』(P.557)に載っている「人間身体の組織とその付属器官」という表の内容を引用させて頂きます。

肉体

食物鞘

この表によると、肉体は、食物鞘と生気鞘になっていますが、上記したように食物鞘
が食物によって支えられているこの身体のことです。

生気鞘

 ターイッティリーヤ・ウパニシャッド第二編梵歓喜品第一誦と第二誦には、私が実際に体験したことと同じことが次のように書かれています。
『この食精所成の人間の他に、生気所成のより内面的な自我がある。これによって前者は満たされている。この自我もまた人間の姿をしている。』
(ターイッティリーヤ・ウパニシャッド IIー2ー1〜2)

 すなわち、肉体という食物と水とから成る身体とは異なる、もう一つの身体があると説いています。そして、その身体は肉体の内部にあり、生気によって満たされている。従って、肉体も生気によって満たされており、この生気からなる生気鞘は、肉体と全く同じ姿、形をしているというわけです。この同じ第二編の他の誦では、五種の鞘についても述べられていますが、それらはいずれも人間の肉体と同じ形をしており、肉体の内面を満たしていると述べられています。

『魂の科学』P.196

※上記引用の最後に“五種の鞘についても述べられていますが、“それらはいずれも人間の肉体と同じ形をしており、肉体の内面を満たしていると述べられています”と、あります。
けれど、後に紹介しますが、『魂の科学』には意思鞘・理智鞘・歓喜の“居処”も書かれています。

生気鞘は、気の身体と言って良いのではないでしょうか?
五種の主生気(アパーナ気・サマーナ気・プラーナ気・ウダーナ気・ヴィヤーナ気)と五種の補助生気からできていると書かれています。

関心のある部位をもう一ヶ所、引用いたします。

 ここでもう一つだけ、科学的に重要な事実として理解しておく必要のあることがあります。それは、このプラーナという実在原理は、私達の肉体の各部位の隅々にまでゆきわたっている知覚神経の中に満ち溢れて働いているという事実と、さらに意思鞘もこの知覚神経を介して肉体のすべてに広がりわたって働いているということです。

『魂の科学』P.199

微細体

微細体は、運動が優位に立っている意思鞘と、知識が優位に立っている理智鞘の集合体なのです。

『魂の科学』P.312

非常に興味深いのは、微細体の居処が脳の内部と書かれていることです。

意思鞘と理智鞘の集合体は、動物の脳の内部にあるブラフマランドラに納まっています。このブラフマランドラは、粗雑次元のあらゆる事物の知識を得るための中枢となっています。つまり、真我の所有するこの実験室の中で、この世のあらゆる粗雑次元の事物は調べあげられ、分析された後に、その知識が認識されているのです。

『魂の科学』P.312

後に出てきますが、歓喜鞘、そして、その奥に鎮座している真我の居処は心臓の中だと書かれています。
これらが、最近よく耳にする「心臓と脳の繋がり」に関係しているように思えてなりません。

また、私のように、ブラフマランドラとはなんぞや⁈
と、思う方も多いことでしょう。

眉間から内側へ三インチ、こめかみから二インチ内部の所から額の上部にかけての場所にあって、楕円形をして輝いている球体が、第十番目の扉とか千の花びらを持つ蓮の花とか言われているブラフマランドラです。

『魂の科学』P.315

と、ありますので想像を膨らませてみてください。

意思鞘

上の表には意思鞘の付属器官に“意思・十感覚器官”と、書かれています。
十感覚器官とは、眼、耳、鼻、皮膚、舌の知覚器官と、口・手・足、排泄器官、生殖器官の運動器官。
では、意思とは、何でしょうか?

 感覚器官を機能させ、情報の授受を行なうーこれが感覚器官の支配者、意思という実在原理の特徴です。つまり、意思の助けなしには知覚器官も運動器官も正しく働くことができません。さらに、この意思という強力な内的心理器官の助けなくしては、たとえばそれが理智であっても、推論や分析という働きを行なうことができませんし、生気もまた生命を身体に注入して生命活動を司るという働きをなし得ません。ですから、意思の助けなくしては身体全体がその働きをなし得なくなってしまうのです。

『魂の科学』P.219

“感覚器官が捉えた外界の事物や行為、会話、それに身体内の事物に関する情報を絶えず受け取り(P.222)”理智に伝える。そして、理智が下した判断を、今度は感覚器官に伝えそれを実行させるよう働く。
それが、『魂の科学』の中で繰り返されている意思の働きです。
意思という言葉のイメージとは違いますが、

もしも、理智からの命令がなければ、意思と感覚器官とはどんな働きもすることはできないということになっています。

『魂の科学』P.222

とも、書かれています。

理智鞘

上の表では、理智鞘の付属器官には、理智とだけ書かれています。
そして、理智とは、

理智とは、知識とか認識といったあらゆる形の情報を受け取るとともに、それらの情報を確認し、その情報に対して決定を下すという働きをしている実在原理なのです。

『魂の科学』P.231

と、あります。

理智と他の鞘との関係については、

理智は他の鞘と直接関係しているわけではありません。ただ、意思を介して、心臓内部にある原因体とだけ絶えず関係し合っています。

『魂の科学』P.233

と、あります。

原因体

歓喜鞘

原因体は、五つ目の鞘・歓喜鞘です。
この鞘の内部に真我(アートマン)が鎮座しているというのです。

(前略)心臓を縦に切り裂いてみれば解りますが、そこには小さな種なしブドウのような形をした楕円形の空間があります。この空間全体に歓喜鞘が納まっているのです。ところで、心臓は血液浄化作用の中心となっており、老廃物を含んで汚れた血液を集めて浄化した後に、そのきれいな血液を全身へと送り出しています。また、この血液の循環とともに、知識と運動に関する情報も身体にゆきわたらせています。そしてこの時、心臓の微細な空間の内部にある真我は、そのすぐ近くに位置している心素や我執、理智、意思、それに生気といった各内的心理器官などを道具のように駆使して身体全体を機能させると同時に、快楽を味わわせたり、また解脱の境地に導いたりもしてくれています。

『魂の科学』P.428

心素と我執

上記引用文に、歓喜鞘の付属器官である“心素”と“我執“が出てきますが、この二つにはとても関心があります。
けれど、この二つの役割や超えていく(?)にはどうしたら良いかは、まだわかっていません。

心素

スワミ・ヨーゲシヴァラナンダ氏の著書である『魂の科学』とは、ややニュアンスが違いますが、心素についてもわかりやすく書かれているので、翻訳者である木村慧心先生の著書『ヨーガ療法マネージメント』からの引用を載せておきます。

(前略)ヴァルナ父子の問答はこの歓喜の鞘で終わるわけであるが、この歓喜鞘が真の自己存在と同一であるとは言っていない。歓喜の鞘は第5番目のものであり、さらにその内奥にこれら各鞘を生みだす動力因たる真我(アートマン)が鎮座しているからである。そしてむしろこの歓喜鞘に属する内的な心理器官である我執(アハンカーラ)と心素(チッタ)のなかでも、とりわけ心素(チッソ)こそが記憶の倉庫として機能していることは、古来ヨーガ行者たちが認めてきているところであり。紀元前300年頃に聖師パタンジャリによってまとめられたと言われている、ヨーガの根本経典であるヨーガ・スートラには、記憶とは、かつて経験した対象と心素(チッタ)の内にとどめることである」(パタンジャリ著ヨーガ・スートラ第1章11節)と記されている。そしてパタンジャリ大師は聖典ヨーガ・スートラの冒頭で、ヨーガとは心素(チッタ)の働きの止滅である」(ヨーガ・スートラ第1章2節)とも記している。

『ヨーガ療法マネージメント』P.19

 こうして種々の記憶と、自らの存在を重ね合わせる“誤った認知”であるトラウマ/PTSD疾患も含めて、過去の記憶は多大な苦悩を私たちの与えている事実は世間でもよく知られている。この記憶の倉庫たる五番目の鞘から自己存在を切り離して脱することが、最終的には真の我/真我(アートマン)という存在に行き着くヨーガの究極目標になっているのである。

『ヨーガ療法マネージメント』P.19-20

上記の文章を読んで、

そうそう!
何らかの記憶が私の足を引っ張り続けているのよ。

と、思う人は少なくないでしょう。

我執

 我執とは、自分の行なう知覚や行動、心の中の感情や自分に所属する事物に対して、〝私の〟とか、〝私のもの〟といった、利己的で排他的、個人主義的な考えを付与させる原理のことを言います。さらにこの我執は、理智が下すあらゆる判断決定や命令の中から、微細次元の行(samskāra)を拾い出し、それらの行をすべて心素内に貯える働きに関係するとともに、今度は心素の内部から湧き上がってくる色々な行を、理智のもとへと送り送り届けてもいます。こうした我執の働きによって、真我は、〝私はーである(Aham Asmi)〟とか、〝これはーである(Aham Asti)〟といった思いを経験するようになります。つまり我執は、理智から伝わるあらゆる知識、運動、判断決定、命令、それに様々な経験についての情報を受け取ると、それらの行のすべてに、〝私のもの〟といった烙印を押し、それを心素に伝えてその内部に貯蔵させ、真我にそれらの行を見せつけるのです。

『魂の科学』P.238

この我執の暴走にも随分苦しめられた、と、思っています。

人間馬車説

最後に、人間の構造と機能をわかりやすく説いている『人間馬車説』を載せておきます。

『ヨーガ療法マネージメント』にカタ・ウパニシャッド3章の訳文が載っているのですが、3節から6節を引用させて頂きます。

3節:真我(アートマン)を車中の主人と知れ。身体(シャリーラ)は車輌、理智(ブッディ)は御者、意思(マナス)は手綱と知れ。

4節:諸感覚器官は馬たちであり、感覚器官の対象物が道である。真我と感覚器官と意思が一つとなったものを、賢者は享受者(ボークタ)と呼ぶ。

5節:もしも、その者の意思が常に落ち着きがなく、正しい判断力によって制御されていないと、その、者の諸感覚器官は、駻馬(暴れ馬)の御者に対するがごとくに、統御できなくなる。

6節:しかし、その者の意思が常に落ち着いており、正しい判断力によって制御されていれば、その者の諸感覚器官は、良馬の御者に対するがごとくに、制御できるようになる。

『ヨーガ療法マネージメント』P.22-23

車中の主人が真我(アートマン)
車輌は身体(シャリーラ)
御者は理智(ブッディ)
手綱は意思(マナス)
馬たちは諸感覚器官
道は感覚器官の対象物

上の馬車のイラストは馬が一頭なのですが、『人間馬車説』の馬は10頭だそうで、意思鞘であげた、眼、耳、鼻、皮膚、舌の知覚器官と、口・手・足、排泄器官、生殖器官の運動器官のようです。

なんだかんだ言っても目的地まで引っ張ってくれるのは馬ですし、それが5種の知覚器官と5種の運動器官と知ったときはピンときませんでした。
でも、実際は、それらが思っている以上に重要な役割を果たしているのでしょう。

つづく(?)

“絶対者ブラフマン”については何も書けませんでしたが、今回はこのぐらいにしておきます。

少しでも興味を持ってくださった方がいらしたら嬉しいです。