エネルギーによってふくれあがった思考 エックハルト・トール

問い では、感情はどうなんですか? わたしの場合は、どちらかと言うと、思考よりも感情にふりまわされることのほうが多いんですが。

答え わたしが「思考」という言葉を使う時は、考える活動以上のことを意味しています。それは無意識なリアクションのパターンや、感情をも含んでいます。感情は、心とからだの接点から発せられるものです。感情は思考の状態に応じた、からだの反応なのです。思考の状態が、からだに、鏡のように映し出されたもの、と言えば、わかりやすいでしょうか。
 たとえば、攻撃的な考えや敵意は、怒りのエネルギーをからだに蓄積します。からだは、闘いに備えているのです。肉体的に、または心理的に自分がおびやかされている、という考えを抱くと、からだが収縮します。これは恐怖心が、かたちになって、からだに表われたのです。強い感情は、からだに、生化学的変化さえ及ぼすことが、最近の研究で明らかになっています。これも、感情のからだへの物理的な表われなのです。わたしたちは、自分がどんな思考を抱いているかを、いつも自覚しているわけではありません。自分の激しい感情から、やっと自分の思考活動に気づくことのほうが多いのではないでしょうか。

『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』P.40-41

エックハルト・トール氏の「思考」という言葉には、「感情」も含まれているんですね。
そして、彼は、“感情は思考の状態に応じた、からだの反応なのです”と、言っていますが、あなたは理解できますか?

私には、わかる面も、わからない面もあるので、今回はパスして次にいかせて頂きます。

 感情というものは、たいてい思考がエネルギーによってふくれあがり、表面化してしまったものです。エネルギーのすごさに圧倒され、はじめは観察していられるほど「いまに在る」ことができないかもしれません。感情はわたしたちを支配したがり、ほとんどの場合、それに成功します。ただし、自分が感情を追い払えるだけ、「いまに在る」なら、話は別です。もし「いまに在る」のが不十分で、無意識のうちに、感情とひとつになるという、「落とし穴」にはまってしまったら(よくあることです)、感情は一時的に、「わたし」になってしまいます。

『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』P.44

 “感情というものは、たいてい思考がエネルギーによってふくれあがり、表面化してしまったものです。”という説明はよくわかりますよね。

街を歩いていると感じの良い精神科クリニックが目に入る今とは違う昭和という時代に青春をおくった人の中には、「感情は逃げずに感じきる」に徹して乗り切ってきたという方もいらっしゃるのではないでしょうか?

まさに私がそうだったのですが、解放されるために浮上してきた感情には、ずいぶん振り回されたとずっと思ってきました。

でも、結局、思考、つまり左脳に振り回されていたのかもしれません。

ネドじゅんさんを知ってからは、感情を感じきり解放するぞと意気込んでいた場面で、考えるのを止めれば良いのだと思えるようになりました。

結構、それでお仕舞いに出来てしまうのですが、たくさんの観念、思い込みを抱えていた昔の私に出来たかどうかはわかりません。

死をも含めて、これが起きたら不幸。
泣いて悲しまなければいけない。
と、思い込んでいることさえあったりします。

けれど、離婚や、失恋、誰にでも訪れる死も=不幸ではありません。
不幸を膨らませたい左脳に栄養を与えるのではなく、“おおもと”にゆだね、考えないというのも一つの選択ですね。

インナーボディやペインボディ等々、エックハルト・トール氏が本や動画で語っていることを、まだまだシェアしたいのですが、次の記事は、彼と少し離れて、感情と深い関係にある観念・思い込みについて書きたいと思っています。