思考とは? 感情とは? エックハルト・トール氏に学ぶ

 わたしが二十九歳になってまもない、ある晩のことでした。夜中に目を覚ますとわたしに「絶望のどん底だ」という思いが、おそいかかってきました。こんな気持ちになることは、当時のわたしにとって、珍しいことではありませんでしたが、この時ばかりは、ふだんにもましてその絶望感は強烈でした。
 死んだように静まりかえった夜に、暗闇の中で、ぼんやりとうかびあがる家具の輪郭、遠くからかすかに聞こえてくる、汽車の音・・・・・・なにもかもが不自然で、氷のように冷たく感じられました。そして、あらゆるものの存在が、無意味なことのように思われました。この世のすべてを、呪ってやりたいほどでした。
 しかも、このわたし自身こそが、もっとも無価値な存在のように感じていました。
「こんな悲惨な人生を歩むことに、いったい、なんの意味があるというのか?どうして、これほど苦しみながら、生きていかなければならないのか?」
 わたしの中にある「生きよう」という本能は、「もう存在したくない、いっそのこと消えてしまえたらいいのに」、という悲痛な願いに押しつぶされていたのです。わたしの頭の中を、「こんな自分と生きていくなんて、まっぴらごめんだ!」という思いが、ぐるぐると回っていました。

すると突然妙なことに気づいたのです。
「自分はひとりなのだろうか、それともふたりなのだろうか?」
 こんな自分と生きていくのが嫌だとすると、『自分』と『自分が一緒に生きていきたくないもうひとりの自分』という、ふたりの自分が存在することになります。そこでわたしは自分に言い聞かせました。
「きっと、このうちのひとりが、『ほんとうの自分』なのだ」
この時、わたしは、頭の中でつぶやいていたひとり言が、ピタリとやんでしまうという奇妙な感覚に、ハッとしました。

『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』p.14-15

上記は、ネドじゅんさんの動画でも紹介されていたことがあるエックハルト・トール氏の著書『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』の序章からの引用です。

自分に対する無価値感、生きていくことへの無意味感。

私自身は、恐れなど他の感情に対処するのに一生懸命で、無価値感や無意味感にがっちりつかまってしまうことはありませんでした。
でも、自分の中で眠っているそれらがうごめきだしたら、恐れ以上に厄介かもしれないと思うことはありました。

恐れにしても自己嫌悪にしても生きていくことが前提。
でも、無価値感や無意味感にとらわれ、生きていく気力が失せてしまったら、どうなってしまうのかわかりません。

エックハルト・トール氏は、そんな「もう存在したくない」という絶望的な状況の中で大転換を体験するのです。

頭の中のひとり言がやんだあと、この夜、彼にどのようなことが起きたのかは、本を読んで頂きたいのですが、翌朝の彼は生まれ変わっていました。

 わたしが目を開けると、力強い朝日が、カーテンを貫いて、わたしの部屋に降り注いでいました。この時のわたしは、そのまばゆい光が「人間の英知をはるかに超えた、無限ななにか」であるということを、あたりまえのように知っていました。
「そうか、この暖かい光は、愛そのものなんだ!」
わたしの目には、涙があふれていました。

『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』P.16

ネドじゅんさんが、突然思考が消えて体験した“今ここ”の世界。

運命の出来事が起こったあの夜、わたしの苦しみは、限界に達していました。そのため、わたしの意識は、「自分は不幸で、どうしようもないほどみじめなのだ」という思いを、完全に捨て去るしかありませんでした。このような思いは、もともと、思考のでっち上げにすぎません。この捨て去り具合があまりにも徹底的だったので、「にせの自分」はとつぜん空気を抜かれてしぼんだ風船のように、ぺしゃんこになってしまったのです。そこに残ったものこそが、「わたしの本質」であり、永遠の存在である「ほんとうの自分」なのでした。

 『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』p.17

こんなこともあるのかと、最初は感動していました。
でも、そのあとで、むくむくと疑問が湧いてきました。

「無価値感」や「自己嫌悪」は、感情じゃなくて思考なの?

なぜ、このような疑問が湧いてきたかと言うと、エックハルト氏と同じくネガティブな思考や感情が限界に達していた私は、同じく29歳のとき、ひとつの失敗をきっかけに、それらが、解放されるべく吹き出してきたのです。

荒れ狂う感情の嵐は観念・思い込みを吹き飛ばし去っていく。
一瞬、青空が広がるけれども、また日常の出来事をきっかけに新たな感情の嵐に翻弄される。

その繰り返しは結構きつかったので、もっと楽に感情を手離す方法は無かったものかと、ずっと気にかけてきました。

私自身は、自分がトラウマ体験により感情という過剰なエネルギーを抱え込んでしまったのだと思っています。
そして、エックハルト・トール氏は、その点では私と違ったのかもしれません。

それにしても、生きる気力さえも押しつぶされそうに感じるほどの、「無価値感」や「絶望感」や「自己嫌悪」は思考のでっち上げで、思考が止まればきれいに消えてしまうものなのでしょうか?

そもそも、思考と感情の違いとは何なのでしょうか?

この本は、質問にエックハルト氏が答えるという形で進んでいくのですが、私と同じ疑問を持つ人がやっぱりいました。

思考とは? 感情とは?
そして、彼がいう『インナーボディ』についても、次回以降、シェアしていきたいと思っています。